はじめに
本書は、医療界ではとても有名な岩田健太郎氏が書かれた本です。
岩田先生は、クレバーに物事を語られるので、一部の方には嫌われがちですが、共感者もたくさんいます。
例えば、ツイッターなどのSNSではクリアカットな発言がわかりやすく、ときに炎上と呼ばれる形で世間に広まってしまうこともあります。
とはいえ、炎上を起こす方はそれだけ人々の興味をそそる存在でもありますので、共感者が沢山いながらも一部からは嫌われ者であることも事実です。
逆説的ですが、一定の人から嫌われ者であるということは、人気者であることの裏返しとも言えます。

岩田先生は、感染症診療のスペシャリストです。
岩田先生のレベルで感染症診療を行う医師は、ひょっとしたら全国には何人かいらしゃるかもしれません。
けれども、感染症の世界をこれほどまでに医療者に流布される活動は、岩田先生にしかできない芸当だと思います。
それは、一部は炎上商法といわれるものと捉えられるかもしれません。
けれども、個人的には冷静に考えれば多くのことを、高い確率で正しい実践を行われています。

わたし自身も、岩田先生の著書を過去〜現在まで読んできましたので、バイアスは掛かっています。
嫌いな人は読まなければいいですし、そうでもない人は是非とも読まれるべき本であると思います。
専門分野以外での活躍
世間では、こんなに専門の感染症分野以外での著書が多いということは、専門の仕事をしていないと言っている人もいます。
教授とは、専門の領域において最高学府を目指すとともに、組織をどのように運営していくかという手腕も問われます。
例えば、感染症学分野であれば、感染症学領域における医療の質を提示し、新たな根拠を創出するという活動です。
そして、後進を育成するということも当然ですが含まれます。
臨床・教育・研究のバランス
医療分野では、臨床・研究・教育という3本柱があります。
個人的意見ですが、臨床をそれほど行っていなくても、その組織が十分な実績を提示できていればそれでよいと思います。
ただし、以前問題になった、手術のできない外科医が教授になるということは、たしかに困るような気がします。
本来トップはいるだけでよい
本来、トップの人間が何もしなくても組織が良好に構築されることが目標です。
一言で表現するなら、「主体性」ということになります。
その様な観点からは、岩田先生は対外的には極めて目立つ存在ですが、一般人の感覚では臨床に注ぐ時間は少ないのではないか、と思うのは当然かもしれません。
多くの人を助けるためには
1つは基礎研究
沢山の人を医療を通じて助けるためには、1つは基礎研究を行うことです。
例えばワクチンや薬を開発することで、沢山の人を救うことができます。
山中伸弥先生の、iPS細胞は基礎研究において、とても有名です。
もう一つは教育
2つ目は、教育を行うことです。
基礎研究で構築された理論を、臨床的に導入の是非を判断する行為とも言えます。
つまり、基礎と臨床は本来表裏一体の関係性にあります。
沢山の研究結果を、臨床的に応用可能な形で後進に対して適切な教育を行います。
適切な教育の効果は、言葉は悪いですが、ねずみ講式にその効果は広まっていきます。
根拠に基づく医療の実践
そもそも、エビデンスとは多くの人にとって効果を示す事象であって、全人に対して効果を示すものではありません。
全人にとって、偶然では説明できない可能性で効果を示す事象の事とも言えます。
エビデンスは万能ではありませんので、根拠(エビデンス)に基づく医療(EBM)が実践されます。
EBMにおける、「根拠」以降の「に基づく医療」の部分に関しては、目の前の医療者が対峙している患者さんに適用できるかどうかを判断します。
たとえば、β遮断薬という薬剤がありますが、起立のたびに血圧が下がってしまい、かつ意識を失ってしまうほどの状態であれば、根拠を示す薬剤は使いづらいと判断される可能性が高いです。
もちろん医療者は、どうすればβ遮断薬が必要な患者さんに副作用を軽減させつつ導入するかを考えますが、副作用が前面にでてしまう場合はやはり導入を諦める判断をせざるを得ない場合もあります。
権威を超えた影響
ということで、岩田先生の教育は自らの教授という権威を超えて、多くの医療者へ流布しています。
その結果、多くの患者さんはより適切な感染症診療を行えていることは確かだと感じています。
いろんな意見があると思いますが、良い部分に関しては素直によいと受け止める度量も必要です。
リーダシップの効果とは、全ては成果に依存するといえます。
ダイヤモンド・プリンセス号
岩田先生が非医療者に対する全国区で有名になったエピソードの1つです。
Covid−19がまだ日本で流行する前に、豪華客船内で流行しました。
しかし、船内で感染者は急増し船内での感染管理が全くできていないことを、いわば告発されました。

特に日本では、告発した場合は告発者はが保護される制度が遅れており、巨大な組織により潰されてしまうこともあるようです。
岩田先生の場合も、当然賛否色々あったようです。
結果としては、船内から追い出されてしまったと、岩田先生は仰っています。
ことの詳細に関しては、本人達のみぞ知る事実ですので、個人的にはなんとも言えません。
個人的な所感としてはこのエピソードをきっかけに、感染管理に対する異論を唱えたことで世間に対し、正しい知識を提供するきっかけになった気がしました。
芸能人に対するいじめ
宮迫氏は犯罪者ではないし、仮に彼が犯罪者であったならば、法がが彼を罰する
本書より一部改変引用
宮迫氏とは、お笑い芸人の有名人です。
闇営業といわれる、反社会勢力者に対する営業が明らかとなり、世間から多大なるバッシングを受けています。

本書より引用していますが、宮迫氏の行動は間違った事ではあったのでしょうが、法的には問題ないとされています。
だからこそ現在も、テレビ以外ではありますが、活動が許されているのです。
その結果、反省し活動を自粛していたわけです。
DaiGo氏(人の芸名です)が言っていましたが、闇営業を行ったホテル側は場所代や飲食代を受け取っているはずです。
一貫して悪いことをしているという事実は変わらない事実ですが、有名人だからこそ過大なバッシングが許されているわけではありません。
当然ですが、テレビを中心に活躍する芸能人は、視聴者やスポンサーのニーズがなければ、活躍できません。
だからといって、視聴者は何でも言って良いわけではありません。
これでは、飲食店などで横柄な態度をとっている、インテリジェンスの低い人と同じです。

そもそも、何の関係もない一国民かつ視聴者がなぜそれほどまでに執拗にバッシングをし続けなければならないのかが問題なのです。

病院でも同じ
けれども、この様な事象はどこの組織でも起こります。
例えば、病院でもよくあることです。
偉い立場の看護師が「あの子空気読めないよね」などの文句を休憩室で言ったとします。
その看護師にとっては、普段どおりの会話なのですが、それを聞いた看護師は「あの子は空気が読めない➜空気が読めないということはダメなやつ」と、歪曲した概念で捉えてしまいます。

そして、他者の意見同士が重なり合うと、それはシナジーと化して、一人の発言が二人の発言になります。
二人がそれぞれで言う分にはまだ良いのですが、二人合わさるとフュージョンしてしまい、その効果は3倍にも4倍にもなります。
そして、病棟全体の看護師で一人の看護師を「いじめ」る構図が出来上がります。

いじめの標的は実は普通
極端に責められている看護師を、客観的に見ても、また同じスタッフとして働いても、なんらそんなに変なことは実際はやっていません。
ただの虚像に過ぎないのですが、世の中の看護師さんはこの虚像を通して見られる方が非常に多いので、看護師の退職者は極めて多い状況となってしまうのです。
つまりいじめとは、一人で起こるというよりは「集団で」起こることがより陰湿で問題となるのです。
一人でしたら、今日の勤務を乗り切れば、と思えますが、集団ですといつ勤務に来ても同じ様な扱いをされてしまいます。
例えるなら、ドラマの悪役を本来の生活も悪役として認識してしまうようなものです。
個人的な経験
かくゆうわたしも、その様な経験があります。
研修先の看護師数十名から、アンケート評価を取らせてほしいといわれたので、軽い気持ちでいいですよ、と返事しました。
けれども、その結果はひどいものでした。
要は、看護師達はわたし達にひどい思いを抱いてほしいがために行ったアンケートだったのです。

その結果を持って、わたしはハラスメント委員会に相談をしました。
けれども、すぐには取り合ってもらえず、事実確認が先といっている間に、仕事が忙しくなってしまいましたので、結局はそのままお蔵入りとなりました。
わたしが起こした行動も、微々たるものではありますが少なくとも上層部には伝わっていたようですので、行動に起こすということは大事なのだと思います。
振り返れば、過去にも何度もそういった行動を起こしてきました。
組織からしてみれば、面倒なやつだと思います。
けれども、看護師の世界というのはそういうものなのです。
もちろんいい人もいますし向上心のある方もたくさんいます。
けれども、一部の心無い看護師の影響はパレートの法則のように、看護師という大きな組織にとって多大な意味を持ち合わせる事となります。
看護師は可能性を秘めている
看護師という職業は、とても可能性を秘めた職業です。
というのも、本来持つ知識の1割も通常の業務で発揮していないからです。
それは、医師も同様かもしれません。
だからこそ、そんなところにパワーを使うのではなく、患者さんのためにパワーを注ぐべきなのです。
そうすることで、病棟の看護の効率化などが行えるようになります。
視点をどこに持つのか、というだけでプロフェッショナル集団でしたら、いじめはなくなる様な気がします。

いじめに合意形成はない
当然ですが、いじめに合意形成はありません。
常に一方的で、何の説明もありません。
そしてそのいじめを拒否する権利をもありません。

通常医療に置いては、合意形成のプロセスといわれる、インフォームド・コンセントというものが行われます。
これは、日本語訳では「説明と同意」とされています。
インフォームド・コンセントが正しいわけではありませんが、医療においては合意形成のプロセスを学んでいます。
良い行為だと思っていながらもいじめに加担している?
例えば、患者さんに仕方なく安全を担保する目的で、身体拘束を行う場合も基本的には同意が必要です。
採血や吸引など侵襲的な処置を行う場合も、必ず必要です。
けれども、病院にはそんな意識状態の良い方ばかり入院しているわけではありませんので、ときに合意形成のプロセスが欠落してしまいます。
この状態のことを、いじめと思っている人はまずいないと思います。
けれども逆の立場で、自分で痰を出そうとしているのに、無理やり手足や顔を押さえつけられて吸引されるのはとても苦しいはずです。
ここでの例を上げると、医療とは吸引を行わないことで患者さんの命と引きかえにその侵襲的な処置を、無許可で行っているということになります。
これらの行為が正しい事であるのかは、常に考えるべきです。

命と引換えに医療者は何を行ってもよいのか
「命と引き換えであれば何を行ってもよいのか」と自分に常に問いかける必要があります。
客観的に合意のない状態で、これらの行為は正しい行為とは言えませんし、絶対に間違っている行為とも言い切れません。
だからこそ、つい曖昧なまま行ってしまいます。
いじめも同じロジックです。

いじめの理由がわからないまま加担している
いじめるための理由としての根拠もわからないまま、いつのまにかいじめに加担してしまうのです。
そもそも、いじめるための根拠があったとしても、そんな根拠なんてないですし、いじめるための理由や根拠はまったくもってこの世に不必要かつ存在しないものです。

無知の知
これは、ソクラテスのいう「無知の知」とも似ています。
医療者の多くは、数年すれば仕事ができるようになります。
そして、何でも知っているように勘違いしてしまいます。
知らないことを知る努力と、知らないままいじめに加担しているという事実は、自分を客観視するところから始まります。
メタ認知
つまり、メタ認知ということです。
メタ認知とは「認知の認知」とも呼ばれます。
自らを、客観的に見るための能力の事です。
特殊な職業であるからこそ倫理観が求められる
医療とは、極めてまれな職業です。
たとえば、外科医はお腹を切って治療を行いますし、内科でも血管に針を指したり、他の職業では少し考えがたい様なことを行う特殊な職業です。
だからこそ、倫理観を持って望むべきです。
倫理とは、原義においては「仲間たちとともにあるための理法」とされています。
仲間たちとともに、少数の人をいじめるようでは困るのです。
これは、医療従事者だからこそ、必要な知識であるはずですが、欠落している方は非常に多い印象です。
医療において、最も重要なのは医療の知識や技術ですが、それと同じくらい必要なのがリベラルアーツとよばれる一般的な教養であり、哲学的な思考です。
事実なのか事実と思っていることなのか
事実なのか、事実だと思っていることなのか
本書より引一部用
本書で岩田先生が、米国研修中に実際に言われた事だそうです。
結構、頭をバットで殴られたという例えがしっくりくる言葉だと思いました。
事実と事実と思っている事は、全く別物です。
ときには同じになるのかもしれませんが、その出処は全く異なります。

医療には医療安全と呼ばれる分野があります。
特に医療安全の分野では、これらは非常に重要になってきます。
事実でないことを、事実だと思って伝えられることで、誤った解釈を起こしてしまうことにも繋がります。
例えば、1時間で尿量が100ml出たとします。
けれども、2時間後の尿量が200mlだとは思いますが、200mlではないのです。
2時間後の尿量は、2時間後にしか分かりません。
予想することはできても、事実とは異なります。
いじめ文化でも同じです。
先に上げた例えのように、ベテラン看護師の発言は事実かどうかは分かりません。
事実かどうかは、自分で検証するしかありません。
そして、自分で検証した結果事実と同様の結果であったとしても、いじめてよい原因には当然なりませんが。
とにかく、事実のみに真摯に向き合う姿勢は、集団でのいじめ体質文化への減少に寄与する可能性があるような気がしています。
インサイドアウト
間違っていることをわからせるためには、自分が正しいことを行う
本書より改変引用
これは、岩田先生が米国で行った経験談を書いていました。
仕事をしない同僚の分まで仕事を行ったことで、目的としてはやけになって起こした行動だったようですが、結果的に仕事をしない同僚は謝罪をしてきたそうです。
そしてこの同僚は、過去もずっと仕事をしてきてなかったそうですが、この行動がきっかけとなり、少なくとも岩田先生の前では仕事をするようになったそうです。

自分が変わることで他者へ影響を与える
これは、7つの習慣という本に書かれていますが、インサイドアウトという考え方そのものだと感じました。
アドラーも同じようなことを言っています。
つまり、相手を変えることは難しい、というか多分無理というスタンスから始めたほうが良いです。
しかし、自分が変わることで相手を動かすことはできる可能性が高いです。
人を動かすのではなく、自分が動いた結果、相手も動いてくれるようになるのです。
他にも、いじめ体質に絡んだ様々なエピソードが書かれています。
本書の多くには、共感することばかりです。
いじめを無くすことは、難しいのかもしれませんが、適切に対処することは可能です。
昭和や平成など、現在は過去の時代では無いのですから、いじめは無くす方向でみんなで考えて、実践(行動)に移すことが必要です。
それこそが、倫理的な人間として成熟して、一歩進んだ様々な事象を提供できるのだと思います。