子育て 読書

【読書No.8】モンテッソーリメソッド 堀田はるな 著

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著者の堀田氏は、著書執筆時には保育士のようですが、アパレル・アマゾンジャパン・オンラインマーケティング・マネックスFXなどを経た経歴を持つ方のようです。
結婚を機に教育の道へ転身されており、出来る人は何やっても出来るんだなーといった印象です。

第1章:モンテッソーリメソッドで育つどんな大人になるのか

モンテッソーリで育った著名人

最近では、将棋の藤井聡太棋士が有名です。
その他にも、世界的に活躍されている、ラリー・ペイジ、ジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバーグ、バラク・オバマ、ピーター・ドラッカーなどなど、他にも沢山いらっしゃるようです。

最も、モンテッソーリメソッドで育ったと言うだけで、このように世界で活躍出来るわけではないと思いますが、このように世界で活躍する著名人を多く排出しているということは、注目に値すべき成果であると言えます。

「自律」と「集中」

モンテッソーリメソッドの源泉は、自律と集中により、創造性が育まれるといいます。
その中でも、「20%ルール」というものがあるそうです。
20%とは、何の20%かというと、自分が集中して自分のやりたいことをやる時間のことです。
一見ムダな時間と思えるかもしれませんが、実際創造性とは本来の業務の主体とは関係ないところから生まれる事はよくあります。
このあたりは、生産性とも通じるものがあるように感じます。
生産性の最たる部分は、より少ない時間でより大きな成果を生み出すという事に繋がってくることです。

つまり、自由な時間を有効に使う事で、思ってもいなかった成果につながる可能性があるということです。
どんな成果につながるのかはわかりません。
たとえば、iPhoneは、例えばSONYのWalkmanや携帯電話などからヒントを得て、今まであった技術同士をかけ合わせて、全く新しいモノを作り上げたといえます。
その視点に気づけるかどうかは、このような20%ルールが活きてくる気がしています。

「自律」と「自立」

自立:他の助けを受けずに独り立ちすること
自律:他からの支援や援助を受けず、自分の行動を自分の立てた規律によって行うこと

多様性を受け入れる

みんな違って当たり前と言う前提にたっている。
これは、日本の教育における大きな問題点であり、風土ですが横並びで成長していくことが良いことのような風潮があります。
学校の授業においては、平均的に学力を伸ばす必要がありますが、その中でも突出してできる人もいます。
けれども、その突出してできる人も、同級生と同じようなスピードで進んでいかなければなりません。
勉強できる人にとっては、当たり前の授業を受けてもその時間はムダな時間にしかなりません。
しかし、その授業中に読書をしたりしていると、ダメということになります。
試験の結果は、最も成績が良かったとしてもです。

この例は、少し極端かもしれませんが、「人と人は異なる」という前提に立つということが必要です。
たとえば、子育てしていても親と子という親密な関係性ですが、わかり会える事は無いように思います。
また、親が子どもを支配しようとするパターナリズムも、親にとっては便利ですが、子供とは結局はわかり会えないという結論に至ります。

柔軟な発想

モンテッソーリ教育では、取り組む課題もすべて自分たちで決めるそうです。
自分で選択するということには、たいへん共感します。
子どもだからといって、親が何でも選択するというよりは、選択肢を与えて子どもに選ばせることは自律への第一歩であると感じます。
大人でも、与えられた課題はやりたくないものです。
自分で選択したことに関しては、比較的長続きすることが多いと思います。
個人的には、何でも選択させるようにしています。
たとえば、食事の際の食器やお箸やコップなどからはじまり、どの食事をどの程度食べるのかも、自分たちで選択させています。
モンテッソーリメソッドとは少し異なるかもしれませんが、自分で選択させるということに関しては共通している事のように思います。

問題解決能力が育っている

個人的意見ですが、頭のよさとは、問題設定能力と問題解決能力であると思います。
つまり、適切な問題設定がまず、必要になると思います。
例えば、世の中の母親達は、「ダメ」が口癖になっています。
なんでダメなのかが、問題設定という事になります。
その結果、問題解決への糸口が見えてくると思います。

たとえば、コップを机の端っこに置いた場合、「ダメ」と言うことは簡単です。
けれども、何がダメなのか理解していない可能性が高いと思います。
この場合は、何故コップを机の端に置いたらダメなのか、というのが問題設定になります。
その設定された問題に対し、机の下にコップが落ちると割れてこぼれるからという解決策が導き出されます。

研究でも同じです。
臨床研究の場合は、クリニカルクエスチョンという、臨床的な疑問があります。
このクリニカルクエスチョンというのは、臨床で働いていると毎日いくつかの疑問に当たります。
けれども、何も考えずに勤務しているとそのような疑問に気づかずに毎日が過ぎていくことになります。
そのため、わたしの持論としては、臨床家は臨床研究を行うべきという結論にいたります。

例えば、内服薬を多数常用している方は高齢者になるほど多くなりますが、高齢者になるほど飲み忘れなどを含む理解の概念である、服薬アドヒアランスが不良になります。
つまり、内服薬を処方したとしても、内服できていない可能性が高いということになります。
この場合の、問題設定は「この患者さんは内服できているのか?」という事になります。
内服出来ていない場合は、一包化といって内服薬を1つの袋にまとめることでアドヒアランスは改善する可能性が高くなります。
また、胃切除後でも胃薬が入っていることもそれほど珍しいことではありません。
何も考えずに処方を継続すると、このような副作用による不利益や薬剤処方の手間や国民の税金がムダな薬のために支払うことになります。
常に考えることが本来必要ですが、臨床業務は多忙ですので、ときには振り返って考えてみることが必要だと思います。

自分の得意分野を突き詰めている

ドラッカー氏がよく著書に書いていたと記憶していますが、強みを活かすということです。
それぞれの、”強みを活かすことで弱みを意味のないものにする”という概念は、チームで活動するにあたり必要なことです。
一人ひとりの能力には限界があります。
受験勉強でも、強みを伸ばすことで弱い部分まで伸びてくるといいます。

病院はそれぞれの専門家が専門の診療科で診療を行いますので、強みを活かす集団になります。
けれども、そこには陥穽があります。
専門科の方々はそれぞれの専門には強いですが、専門以外のことには弱かったりします。
その隙間を埋めるのが、総合診療などの領域になります。
先に述べた、内服の管理もそうですが全身を診て診療を行うというのは、一見幅広く強みとは異なるように見えますが、逆手をとった強みになりえます。

第2章:子供の才能を伸ばすモンテッソーリメソッドとは

マリア・モンテッソーリ

マリア・モンテッソーリとは、モンテッソーリメソッドの開発者です。
1870年(明治3年)にイタリアの裕福な家庭に生まれました。
しかし、この頃はイタリアといえども女性が活躍する環境は整ってませんでした。
モンテッソーリは、そのような逆境を吹き飛ばし、イタリア女性初の医学部進学を遂げたそうです。

その後男性ばかりの中、1人だけ女性ですので当然苦労ばかりだったようです。
その後医師免許を取得し、就職先にも苦労したそうですが、ようやくローマ大付属病院の精神科での就職が決まったそうです。
その精神科で、知的障害のある子どもの間隔的刺激があることを発見します。
それを契機に、指先を動かし感覚的な刺激を得られる玩具を開発し、さらにその玩具を使用した結果、障害のある子どもでも知的能力を伸ばせるという重大な発見がされました。
その成果は、イタリアの医学会で流布したと書かれています。

学びの年齢

あることを学ぶのが容易であるか難しいかは子供の年齢によるのではなく、個人の可能性との関係のなかでのみ定義づけられる

この個人の能力に応じた学びは、先にも書きましたが学びに年齢は関係ないと思います。
たとえば、玩具には対象年齢が書かれていますが、あくまでも対象であって、個人の興味や能力によっては、実際の年齢より遥かに高い年齢であっても真剣に取り組んでいます。
これは、学業においても同様です。

たとえば、小学1年生はここまでしか進んではいけないと言った風潮がありますが、伸びる人財は極端に伸ばすべきだと思います。
そのため、公立の学校はその特性からも、全員を平均的に教育するという目的より、出来る人財までもが敢えてスペックダウンして対応しなければならない現象が散見されているのではないでしょうか。

イノベーションの原動力

日本はGDPベース世界3位でありながら、GDPに占める教育費への割合は、先進国中最下位とされています。
これは、由々しき問題です。
教育とは未来への投資ですので、極端な話未来は二極化する可能性が高いと思います。
その結果、学力の乏しい人材は適切な教育を受けないことで、健康に悪い生活と低収入を経て、生活習慣病の結果医療費の増大にも寄与する可能性があります。

日本の社会保障費は約123兆円で右肩上がりとされています。
年金と介護と医療で約105兆円ですので、これから先高齢化により増加の一途をたどるのは自明であると思います。
現在の社会保障のシステムは破綻する可能性が高いと思われます。
そのため、自分で稼ぐ能力がなければ極端な話、生活して行けないという事になります。

モンテッソーリメソッドの基本

大人は環境を整えることに注力する

子供目線だと、普段とはだいぶ異なる景色がみえます。
たとえば、机や椅子なども大人用と子ども用だと当然ですが使い勝手が異なります。
そのため、環境を整えるためには子供用の机や椅子も必要になってきます。
自分の身の丈にあったものは、集中しやすいように作られています。
はさみなども同様で、子供用がやはり使いやすいのです。

子どもは、時にすごい集中力で何かに取り組みます。
ときには、紙をひたすらハサミで切ったりして散らかりますが、集中力の観点からは極力邪魔しないようにしています。
しかし、その集中力も続きませんので、その時にはじめて親がお手伝いしてあげるのが良さそうです。

子どもに限りませんが、好きな事でないと長続きしません。
たとえば、勉強が嫌いな人が一般人の大半だと思います。
けれども、日本の最高学府の東京大学生などは、勉強が好きという人が多い、というかほとんどだと思います。
子どもも同じで、勉強を遊びとして理解しているように思います。
勉強嫌いな子は、たいていゲーム好きですが、勉強は嫌いと言います。
ゲームに集中出来るのであれば、勉強にも本来集中できるはずです。
なぜ、勉強が嫌いになるのかといえば、やらされているからだと思います。

東大生は「勉強しなさい」といわれたことが無いとよく言います。
それは、親からしてみたら勉強しているから、勉強しなさいと言わないだけなのだと思います。
勉強好きにさせるためには戦略が必要です。
勉強をゲームのようにさせるのは、有効だと思います。
たとえば、足し算の数字を併せて10になるとブロックが消えるようなゲームがありますが、そのゲームが好きになれば自然と足し算の計算能力は向上します。
よりアドバンスになれば、引き算割り算掛け算で同様のゲームが可能になります。
特に算数は、メソッドがわかれば回答にたどり着けますので、ゲーム性が応用しやすいように思います。

子どもを観察していれば何に興味を持つのかが分かってきます。
子どもに勉強しなさいと言っている親は、たいてい言っているだけで終わりです。
勉強しなさい、そして持ってきなさい採点してあげるから、となれば多少志向が異なってきます。
基礎が大事なのは、どのようなものでも共通項目ですが、特に小学生の頃は基礎項目に重点を置くべきだと思います。
ゲームの話にまた戻りますが、ゲームで将来生計を立てる人も最近はいらっしゃいますが、それよりはプログラミングを出来るようになったほうが、クリエイティブ能力はそだちますし、将来の役に立つような気がしています。
ゲームができるなら、プログラミングもできるはずです。

自主性を伸ばす

子供の自主性は最大限にサポートする必要があると言えます。
自主性と似たような言葉として、主体性があります。
自主性は自分だけ、主体性は集団のなかでの自分が主体という事になります。
つまり、主体性とはチームの中で自分がどのような関わりをするかで成果を提示出来るかということに繋がってきます。
ここで、著者が自主性といっているのは、子どもが自分一人で取り組むべき課題であるからだと思います。
つまり、自律の定義として自分で問題を設定して、その問題の解決のために自立するのが自律でしたので、ここでも自律に繋がってきます。
集団での行動の際には、自主的に行ってきたことが、主体的に繋がります。

生き方の基礎となる体験を提供する

失敗は絶対的に必要です。
失敗することで、次に活かすことへ繋がってきます。
例えば、医療の世界では失敗は絶対にあってはならないという風潮があります。
しかし、先進的な団体では診断エラーなどを積極的に公表し、共有し次に活かす試みがなされています。
診断エラーは実は、日常茶飯事とまではいいませんが、比較的よくある事象です。
つまり、ある診断を考えているときには、代替診断がいくつかあります。
その中で最も可能性が高いものを、診断(Most lilkely)としているだけなのです。
そのため、振り返ることが必要です。
それが、内省(Reflection)になります。
失敗を失敗と認識しないと、次に活かすことができません。
成長する人は、失敗を好意的に受け止めていますし、失敗から学びを得ています。

敏感期にもとづいた関わりをする

子供の行動には、それぞれ理由があります。
時に考えもしない行動にでるのは、敏感期があるためだと著者は書いています。
敏感期には、秩序・感覚・運動・言語があります。
それぞれ、2−3歳、3−6歳、4.5歳、6歳までのようです。

2−3歳頃は秩序の敏感期とされています。
いわゆるイヤイヤ期です。
ほんとにこの頃は、何を言っても「いやだ」「嫌だ」「イヤだ」の繰り返しで、食い気味で言ってきます(笑)。
なぜ、そのような親を困らせるような時期があるのでしょうか。
これは、ようやく環境に適応していくための時期のようです。
たとえば、大人でも突然ほんとに何もわからない異国の地に送り込まれたような感じです。
一つ一つ少しづつ理解していくことで、この現実の世界に適応して行こうとしているのです。

この頃はルーチンを乱されることも嫌います。
認知症の方もそうなのですが、普段通りの生活を送ることで、パニックとなることが予防出来るとされています。
子どもはこれから成長するために、認知症の方は残っている認知機能を最大限に利用するために、これらのルーチンが必要になります。
どちらも、よくよく観察すると理由が見つかる場合があります。
親や介護者はその理由を見つけることで、子育てや介護が楽になる場合があります。
聞く技術とはよくいったもので、観察はすべての事象の基本と言えるでしょう。

3−6歳は手を使って学ぶ

人間は巧緻運動といって、手を使って複雑な運動を行っています。
折り紙も少しづつ出来るようになってきます。
パソコンのタイピングも出来るようになってきます。
一方足は巧緻運動として、複雑な運動の機会がある方もいらっしゃいますが、手の運動とは桁違いに少ないです。
例えば、足の切断と手の切断では、義足と義手では義手のほうが失う機能は多くなります。
義足の場合だと、身長の調整ができたり、走るのが早くなったりと好意的に自分をアピールしている人もいらっしゃいます。
一方義手だと、最近は進歩しているとはいえ、まだまだ本来の人間の手のように使いこなすには、難しいとされています。

感覚を通して学ぶ

例えば、「りんご」という文字からでもりんごは伝わってきます。
けれども、本物のりんごを目の前におくと、りんごの細かな形態が観察出来ます。
りんごの上にある枝は何なのか、細かい形など言葉で伝えるよりも遥かに多くの情報が入ってきます。
手に取ると、その感触や匂いまで伝わってきます。
りんごを切ると、中の色や形態もわかります。
食べてみると、味や食感など伝わってきます。
これらの五感をフルに活用することで、子供の脳もフル活動するのだと思います。

何かを学ぶ際は、五感のうちすべてを使うのが理想ですが、可能な限り多くの感覚を使うことで自分の脳の深部に刻まれる記憶になるのだと思います。
体験に勝る、教育はありません。
小さな頃の食事は、大人になってからの嗜好にも大きく影響するとされています。
たとえば、マクドナルドを悪く言うつもりはありませんが、このようなファストフードばかりを食べていると、大きくなった時にマクドナルドが美味しいという感覚が残りますので、食事の幅が狭くなる可能性があります。
また加工肉は、がんや糖尿病にも不利益に作用しますので、可能な限りは避けたいものであると思います。

運動と脳機能は相関する

たとえば、うつ病の際の認知行動療法による運動療法は、うつ病の治療にも応用されています。
よく運動することで、脳の機能も高まるのだと思います。
要はバランス問題で、勉強と運動それぞれ適度に行うことが重要なのだと思います。

第3章:子どもが育つ「環境」を整える【家庭編】

先回りをしない

多くの親がやってしまいがちなのですが、子どもの意図を勝手に解釈することで、子供の語彙力にも影響を与える可能性があるのではないかと思います。
よく、「喉乾いた」といえば、水がでてきたり、水を出したらこれじゃないといわれ、ジュースを出すなどの親の行動です。
たしかに、喉乾いたといわれれば、水が飲みたいということを連想することはできますが、語彙力はそこで止まってしまいます。
そのため、「喉乾いたのでお茶ください」の方が正しい言い方のような気がしています。
たしかに、喉乾いたといわれた場合に、お茶を出すほうが簡単です。
いわゆる、夫婦生活でありがちな阿吽の呼吸というものでしょうか。
けれども、集団の生活で「喉乾いた」といっても、「そうなんだ〜」で終わってしまいます。
きちんと伝えるべきことは、伝わるような言葉の使い方を親は日々の行動から実践すべきなのだと感じます。
さらには、自分で行動させることにも繋がります。
自分で決断するということは、自分の喉が乾いたから水が飲みたいということです。
そのためには、親に持ってきてもらうのではなく、自分で水を冷蔵庫から取り出し、自分で選択したコップを食器棚から持ってきて、自分の飲みたい量を注ぐという一連の行動が、自主性を育てることにつながるような気がしています。
結果的に、親が楽することに繋がります。

なるべく本物を用意する

子どもは親が使っているものに興味を持ちます。
たとえば、プラスチックのコップなど割れないものを使いがちだと思います。
けれども子どもは、親が使っているコップを使いたがります。
時には割れることもありますが、それも体験です。
自分で選択したコップが、自分の不注意で割れてしまった、その結果飛散したグラスで怪我をする可能性がある、そのためには慎重に処理をして掃除機をくまなくかけることで、安全が担保される、という体験・経験につながります。
これが、自分の希望ではないプラスチックのコップをつかったとしても、水がこぼれて「あーこぼれちゃった」で終わりです。
子どもが希望するからには、子供の希望を叶えることでの不利益があることも学ぶことが必要なのです。

ものの置き場所を決める

定位置が決まっていれば、子どもはどこに何があるかがわかります。
わかりやすいように、シールを貼るなどの工夫を自分でやってもらうのも1つの手です。
自分でものの定位置を決めておけば、無くなったとしても自分の責任です。
ものがなくなれば、自分の責任であることを認識させるのも1つの在り方だと思います。
とはいえ、子どもは片付けが出来ないものです。

大人でも同様ですが、選択肢が増えることで悩みが増えます。
選択肢が増えすぎると、大人でも悩みが増えることで、購買件数が逆に低下するといわれています。
子どもだと、2つからせいぜい3つくらいまでの選択肢が良いのではないかと思います。
つまり、不要なおもちゃは廃棄し、使うおもちゃだけを厳選することが必要になります。
また、残されたおもちゃも、ブロックなど遊び方の範囲が限定されていないものの方がよいと思います。
子どもは、ブロックを高く積み上げたり、想像してもいないものを作り上げます。
そこで、親はすごいね−といって自然に褒めると、子どもは喜んでさらに創作に取り組みます。
そのような、良質なスパイラルに繋がる可能性がありますので、使えるおもちゃは厳選する必要があると言えます。

褒めるより共感

褒めるということは、褒めた時点で有意な立場に立っているということになります。
子どもに対して、あくまでも一人前の人として対峙するにあたっては、褒めるということよりも共感が必要になります。
もちろん、褒められると誰しも嬉しいものですので、褒められて嫌な気持ちになる人は少数派では無いでしょうか。

一番嫌なのが、怒られることです。
当然ですが、怒られて嬉しい人はいません。
よくいわれることですが、怒るという行為は感情をのせている時点で、良くないといわれています。
感情をのせて良いことはあまりありません。
ことさら、怒っている時に感情をのせる行為は、事象があらぬ方向に向かってしまうことにもなります。

そのため、子どもの成長にあたっては、叱るという行為が必要になります。
叱る行為には、その子のためを考えた結果です。
つまり、ここをこのように改善すれば、次からはうまくいくんじゃないかなという、共感にもなります。
心からの共感は、親子の気持を一つにすることにもなります。
たとえば、サッカーで同じチームを応援してる場合に、ゴールを決めた際には同じように共感して喜ぶと思います。
子供の気持ちにも、おなじように共感の気持ちを忘れずに接していきたいものです。

お手伝いをしてもらう

子どもの自律にあたって必要なことが、お手伝いであるといわれています。
例えば、包丁を使った調理などは親が直接的な指導の下であるのが前提にはなりますが、そのような一見危険な行為であっても子どもにとっては、大きく成長する機会になるのだと思います。
当然、刃物を扱うにはルールを定めなければ、人の命を奪ってしまう事にも繋がります。
それだけに、信頼関係が必要で、絶対にふざけていはいけないシチュエーションであることを認識させることが必要になります。
最も、いきなりそんなリスクを負うような手伝いから始める必要性はありません。

洗濯物をたたんだり、食事の準備をすることは、自主的な行動にもつながります。
たとえば、食事の際も親がすべて料理を作って、親が食器などを準備して、子どもは食べるだけという状況は避けるべきであると思います。
日頃から、食事の際には準備しなければ食べる事ができないという、自律した人に育ってもらうためには、食事の準備をしなければ食事にありつくことができないという、問題設定を行う必要があります。

調理のお手伝いも同様で、手伝うことで日頃の食事がどのように作られ、どのような過程を経て食台に提供されるのかというのを知る事ができます。
洗濯物も同様で、次から次に汚しては洗うより、自分自身で一部を手伝うことで衣類を汚す頻度が減少するかもしれません。
このように、手伝いには様々なメリットがあります。
また、嬉しいことに最初は親の仕事を増やしますが、そのうち楽することにつながります。

教育の効用とはまさにこのことで、如何に楽するために教育するかというのも親の命題であると思います。
親が楽するために手伝いをさせるわけではありませんが、結果的に親が楽をするということは、それだけ家の仕事を分散することにも繋がります。
また、家族は1つのチームですので、チームとして機能するためにもそれぞれが役割を果たし将来的にも機能する可能性があるのではないかと思っています。

第4章:子どもが育つ「環境」を整える【子供の家編】

異なる年齢の子どもたちが一緒に生活することでのメリット

当然なのかもしれませんが、保育園や幼稚園でも年齢で区切られることが多いように思います。
年齢で区切られる事でのデメリットは、同じような人達の集合になるので、教育の幅が極端に狭くなってしまうのではないかと思います。
社会に出れば、沢山の人達と社会を形成して行く必要性があります。
同級生だけの会社はありません。
たとえば、親子ほど年の離れた者同士でプロジェクトを組んだり、時には親子程は離れた若者が上司になったりします。

幼少期から多様な人材との交流があれば、推奨年齢を超えた遊びも可能になります。
時には、強引におもちゃをとられたり、時には優しく一緒に遊んでもらったり、上級性下級生ともに良い経験になるはずです。
当然ですが、上級生の方が沢山経験もしています。
この時期の1年の違いはホントに大きいですので、上級生は下の子の面倒を見ることで、下の子が楽しく遊べるためにはどうすればよいのかを考えるはずです。
その考えるという行為・思考がとても、重要なものになるはずです。
時には、癇癪を起こして問題となる場合もありますが、可能な限り子供同士で解決策を見出し、大人は本当に必要なときだけ間に割って入るくらいがよいと思います。

テレビからの情報

テレビからの情報は実態を伴いませんので、子どもにとっては不向きとされています。
大人は今までの経験から、たとえばりんごはこんな形で、触った感じはこんな感じで、匂いはこんな匂いで、食べたらこんな味がするというのは、過去の経験より知っています。
ですから、テレビでりんごがで出てきたとしても、理解ができます。
けれども、子どもはそもそもその様な体験自体が少ないので、りんごと言われても見た目にはりんごであることは理解したとしても、それが果たしてどんなものなのかは想像することすら出来ないと思います。

一方で、教育番組での知的レベルの向上を示す結果もあるようですが、最も効果的なのは親から教わり、実物(本物)で体験するということだと思います。
子どもに限りませんが、初めての体験はこころの奥深くに、貴重な体験として刻まれます。

おそらく、初めての家族旅行は誰しもが思い出に残っているものと推測されます。
見ず知らずの環境で色んな体験をすることで、子どもの脳はすごい勢いで活動しているのだと思います。
そのため、旅行などの体験にはお金を使うべきだと思います。
最も、旅行に行っても体験した記憶・感覚しか残りませんが、その体験は今後の人生で深く活きてくるはずです。

第5章:小学校以降のモンテッソーリメソッド

小学生でのモンテッソーリ教育が準備されていない環境が多いようです。
そのため、就学前の環境でも行われていた年齢に依存しない活動に参加することをおすすめしています。
本書では、ボーイスカウトを進めていますが、個人的には何でもよいと思います。
年齢の異なる環境で、仲間達と一緒に活動することでの学びは、就学前と同様に上級生の方が沢山の体験していますので、色々教わることは双方にとって重要なことであると思います。
色んな体験をすることで、自らのアイデンティティを見出すことにも繋がります。
つまり、自律するということです。
自ら計画を立てて、自分の力で生きていく術を学んで行くのです。

まとめ

モンテッソーリメソッドとは、自律から始まる。
全ては教育ですので意思決定は子どもにあります。
問題解決に必要なのは、自律ですので、まずは自分の中でルールを決めて自分だけで何かを行うことから始まります。

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  • この記事を書いた人

R-NURSE

関東地方の総合病院で働いている、臨床看護師です。救急系の集中治療室を経て、現在総合診療内科勤務です。診断とか研究とか、投資とか興味は色々です。

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